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December 2014

2014.12.23

少人数制クラスって?

小学校1クラスの生徒数を35人から40人に戻す(ってのは、何時から40人だったの?ワシが小1の頃は、生徒が教室に収まりきらずに廊下まで溢れていたなー。あの頃は定員なんてあったのかなー? あはは、それで廊下学習に憧れたものだ。少なからず志願者が居たんだが、先生の話を聞いてなくても良くできるヤツしかこの席は許されなかった。終戦直後の話だけど…)という問題についてジャーナリズムが喧しい。
早い話、日本の教育理念(初等教育だけでなく)が知識の詰め込みを基軸にする限り、35人が40人になることなんか左程の問題でもなかろう。これが50人であろうと、場合によっては予備校大全盛の頃の人気教室が100人以上を集めたなんてことにも通底している。まあ、できるヤツを猫っ可愛がりしてできないのを振り落とせば良いだけの話なんだから何ってことはない。
僕なんか、短大で教員を始めた頃は専門課程1クラスの人数が60人近く居たんじゃないか? こんな中でもできるヤツは決まっていて、教員だけではなく、学生間の誰もがその存在を認めている。それは暗黙の承認というやつだ。教員によっては、あからさまにこの優秀な学生の方にばかり目線を送るのが居て、そうすると忽ちクラス中の顰蹙を買うことになる。
こういった際の教員としてのコツは、良くデキル学生を無視してデキナイヤツをかまうことだ。合間には撒き餌を放つように心がける。あんまり効率の良い作業ではないが、時折このエサに食らいついてくるのがいて、これを潮に、案配良く飛翔していくのがいる。この様を眺めるのはいわゆる教師冥利に尽きるというのだろうか(ただ、デキルのを本当に無視しちぁあアカンよ。そこは阿吽の呼吸だね)。
話がずれていく。本題に戻さなくっちゃ。
今回ここでは、近頃話題の生徒数問題にイジメ問題を絡めて話してみようというわけだ。
僕は1982年に、小1に上がったばかりの息子をつれて1年間のドイツのミュンヘン滞在に赴いた。息子は幼時に大病を患っていて、小1になってもひ弱な感じの子だったので、周囲からみればこれは暴挙の類いだった。特に当時健在だった老父母の心配ぶりは尋常ではなかった。私達夫婦だって無神経に臨んだわけではない。早い話が、辛くもこの病から息子を助け出してくれた若い小児科医師からは「将来を保証したわけではありません。大事に育ててください」と言われていた。それほどひなひなした男児だった息子が、なんと一年間ミュンヘン滞在を経て普通の男の子になって帰国できたのだから巡り合わせというものは不思議なものだ。無論、成算があってとった行動ではなかった。彼地で生命に関わる重大な局面に遭遇しても、彼の人生にとって外地での暮らしは充分な意味があったと思えるようなドラマを設定するのも親の役目であろうというような悲壮な気分に駆られての行動であった。若気の至りだったことは、今になればよく分かる。
そんなわけで「ミュンヘンと言えばシュタイナーだなー」などとミーハーな気分のまま彼地に赴いたわけだが、行ってみて現地の反応を感じ取ると、現地ではこれがかなり特殊解だなーと感じた。「私立ならペスタロッチ・シューレじゃねーの?」といわれたりした。ま、別に私立学校にこだわっているわけではないし、いわんや当時、ペスタロッチを連呼する日本の教育関係者の人となり一般にかなり偏見を抱いていたりしたものだがら、「これは公立小学校に行かせた方が良いな」と、すぐ方針を転換した。
ミュンヘン滞在の当初、頻繁に領事館に赴いて色々世話を掛けたのだが、ここが我が家から2度電車を乗り継いで行く場所にあった。小学校の入学手続きには出生証明書が必要だから、戸籍抄本を持参すればこれに必要事項の翻訳を添付してやると言われた。かなり親切なんだろう。そこのところは良く解っていたのだが、入居したアパートの大家さんに小学校の場所を聞くとそこは至近の場所だと分かった(この大家さんがネオ・ナチのメンバーだったことをあとで知ったが、ここでは言わない)。それで物は試しとばかり、直接小学校を訪ねてここに入学させたい意向を伝えつつ、当時は青焼きだった戸籍抄本(当然、漢字を主体にした縦書き文書)に息子の出生地、生年月日などを添えて、これが日本の出生証明書だと言ってヒラヒラさせたら、女性の校長が「おー、ファンタスチック!」とか言って、即刻入学許可が降りたのには驚いた。
ミュンヘンに到着したのが9月当初だったので、あっちでは新学期始まったばかりの一年坊主のクラスに混ぜていただいた。担任は、ちょっとご年配のフラウ・コーネルト(コーネルト夫人)だった。この公立小学校に於ける1年坊主クラスの生徒数が20人そこそこだった分けですね。ここではこれを言いたいわけです。少人数制ってのは、35人が40人になるとかならないとかっていう議論の外にある問題。
近代式の教育制度は手本を西欧にしているといわれているが、その肝心な部分は少人数クラス制と週5日制、それも午前中しかやっていない(少なくとも低学年では)ってとこですかねー。これって現在の我国では全部無視されていますね~。
フラウ・コーネルトが教員としてどのような有能者であったかどうかは、比較する対象を持たないので全く分からないが、私達としては結果的に極めて感謝している。少なくとも彼女の懐の中で育んでいただいたほぼ一年間の間に、息子はすっかり人並みの元気一杯な男子に育っていったのだから。
この20人のクラスでは、担任の目が一人一人の生徒にすっかり行き届いていたということだろう。ま、いやでも目が届くという人数ではないかしら。編入当初、すでに日本人の男子Kがいて、これをフラウ・コーネルトは配慮していただいたのか、同じ国同士を並べて席を配置していただいた。これが結果としてかなり陰湿なイジメを招いたことに彼女は気付いて、席を離して下さった。彼女はこのイジメについて、先方の親には話していないと思っているが、どうだろうか? Kだって急遽新来の日本人男児が隣の席に座って、予想外の反響をクラス内に及ぼしたとしたらなかなか心安らかでは居られない。ドイツ語もろくすっぽできない(というか全~然話せない)。そのくせ、半年ほど早く日本で一年坊主になっていた我が息子は、算数や絵の時間になるととたんに颯爽としてしまう。目障りな存在であったに違いない。かなり陰湿にやられたらしい。
ところで、この20人クラスには息子とKの日本人が2人、それにワルだとの噂のミュヒャ(ハンガリー人、多分日本流に言えばミュシャ? この男の子と息子は程なく仲良くなって、母子で我が家に遊びに来たりしていた)がいた。つまりクラス内の3人はすでに外国人なのだ。この他にも外国人が居たのかどうか知らないが、不法滞在かそれにスレスレという感じでも学校単位では詮索しなかったのではなかろうか? 学校とクラス担任は、20人の子供同士の関係に心をくだくという姿勢だけで精一杯だったのだろう。ま、勉強については本人の興味の持ち様と資質にまかせるというか…。
一年坊主の登校時は親が付き添っていくのだが、帰りは自力で帰ってこなくてはならない。 この学校に通うようになって、どの位い経てからだったろうか? いつの間にか、ザールカンというトルコ人の子が自分のランドセルを背に、息子の分を前に掛けて帰ってくるようになった。聞けば、彼は学校切ってのワルだという話だったが、息子は訳も分からずザールカンと親しくなったのだ。これで息子はイジメとは無縁になったのだと思う。家内はザールカンの家に日頃の感謝の意を伝えたいと言って出掛けていった。ドイツ語でどういうやりとりがあったのか知らないが、彼の家には頭髪をスカーフで巻いた母親がいて、親しく迎えてくれたと言っていた。何か日本からの土産品でも持っていったのかもしれない。
こう書いていくと、息子はドイツ人とは親しくならなかったのかと思われてしまいかねないが、クラスで一番大柄な男子ベャンハルト(ベルンハルト?)とも親しくなった。この母子も我家に来て楽しく過ごしていったりしたが、この子の母親は息子がいじめっ子として要注意扱いを受けていると不満を漏らしていた。
あるとき、私は学校付近の広い幹線道路に沿った歩道を歩いていた。すると向こうからきりっとした顔立ちの少し上級生らしい女の子が近づいてきた。「あんたはSのお父さんか?」と聞く。そうだと答えると、「私が彼に気を配っているんだから心配しなくて良い」と言ってスタスタと行ってしまった。
イジメの問題は単純な話ではない。学校内だけでイジメがなければそれで良いのかという問題でもない。それにどう対処していくか、という子供社会の問題でもある。そこに制度としての学校教育がどうかかわっていくかの問題であって、学校内だけでそれを表面的に根絶できら、それで社会は安泰かというととんでもない話だ。
さしあたって、本来的な意味で少人数制をどう導入するかってことですね。
寺子屋方式を一見欧風に見せかけているだけの近代日本の教育制度が構造的破綻を迎えつつある現状をどう受け取れば良いのか?
これは小学教育だけの話しではなく、大学も同じ流れで難題に突き当たっているのではないか?

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