« December 2012 | Main | September 2013 »

January 2013

2013.01.06

『江分利満家の崩壊』との不思議な邂逅

『江分利満家の崩壊』山口正介著(新潮社 2012)。著者の山口庄介氏は、かつての1963年(うーむ、半世紀前のことだ!)、「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞して以来、流行作家として一世を風靡した山口瞳の一人息子。
 へそ曲がりで、ベストセラーを殊更に避ける癖のある私はこの本を読んでいないが、その後、大活躍した山口瞳が書いた断片的なエッセイ等は雑誌等でしきり読んでいたし、また当時海のものとも山のものとも分からないというか、低迷のどん底に沈んでいた私を何故か気に掛けてくれていた編集者のF氏が、壽屋のPR誌にかかわっていたりしたものだから、何となく自分がそのグループの周辺に居るような気がしていたので(他愛もないことをちょっと手伝わせていただいたりもした)、全くの他人とも思えないような存在でもあった。しかし、その文学的な真骨頂は今でも全く知らない。
 にもかかわらず、今回の『……の崩壊』には手を出してしまった、というか読んでしまった。そしてとても感銘を受けた。
Famyamaguchi_3
 実は、発行早々にこの本が国立の増田書店に平積みされたのを目にしてすぐさま手に取って見たのだが、購入するにはもう一つためらいがあった。それは私が『江分利満氏の優雅な生活』を読んでいなかったからだが、そのうちに結局買うんだろーなー、と思っていると別の書店でも本書の平積みを見かけるようになった。よく売れているらしい。そんならすぐ買えば良いじゃんとの声有り。そこはそれ、定年オヤジにとって可及的速やかに必要でない出費はじっくりと考えた末に……、結局は購入するにしても、店頭で繰り返し手に取りつつウジウジ楽しんで、購入の決断をするまでの時間経過を楽しむのである。この曖昧な時を楽しんでいるうちに、家内が買ってきてしまった。それで読んだ。そして感銘をうけたのだ。
 ためらいつつもやたら気にしていたのは、実は以前に若き日の著者庄介氏に遭遇したことがある……というか、ちらっと見かけたことがあるのだが、それはもう40数年も以前のことだ。この当時、著者は十代の青年と言うよりもまだ少年と言った方が相応しい年頃だったろう。その彼との一瞬の遭遇が深く印象づけられ忘れていなかったのだ。片時も忘れられないというような深ーい記憶ではなかったのだが、今回店頭で見つけたこの本の表紙に一人の壮年の大男がいまや立派なひげを蓄え、きちんとした面構えで両親と並んで立つ姿を見て、かつて得た鋭い印象がにわかによみがえった。
 その時の少年はとても生き辛らそうに見えて、おい、大丈夫かと声を掛けたいほどの心許ない風情を漂わせていたが、このオッサンはあの時の少年御本人なのではなかろうか? ぱらぱらとページを捲ってみると山口家の一人っ子だと記しているから間違いはない。かつての一瞬に得た印象が私の記憶に鋭く刻み込まれたのは、それは他人事でなく、当時やっと二十代の半ばに達し、浮世のメカニズムに沿った行き方をギクシャクと始めたばかりの私にとって、つい十年ほど前には自分自身が陥っていた若年時の息苦しさをと同種の心許ない姿が、この若者に映し出されているように見えてドキッとしたのかもしれない。
 その時私は、ある新鋭女性建築家によって新築なった山口瞳邸を某建築誌の下っ端編集者として取材に訪れ、瞳氏の談話を取りつつ写真撮影に付き添って、家中をくまなく覗き回った。その際に若き正介氏を瞥見したのだ。
 あの少年がこんなに立派になっちゃって、良かった、良かった。後にも先にも彼を見かけたのは一瞬の出来事で、後々その時の邂逅を反芻したわけではないのだが、あのとき受けた鮮烈な印象が、脳裏のどこかに張り付いたまま剥がれ落ちないままだったのだろう。何だか大げさな言い回しになってしまったが、それだけ、この本の表紙で山口瞳夫妻と共に立つオジサンが醸し出すオーラに強い感銘を受けた。
結局この本の主題は、極めて個性的な存在であった著者の母親で山口瞳夫人であった治子氏に著者および山口瞳ともども、徹底的に振り回されたのが、『……の優雅な生活』のもう一つの側面であった、という種明かしであるらしい。「らしい」というのも無責任ないいかただが、つまり私は山口瞳の主著と言われる『血族』も読んでなくて、文学的な邂逅を全く果たしていないとは、このことを言っているのだが、にもかかわらず『……の崩壊』を読了しての感慨はとても強かった。
 戦後核家族の出現で巷におびただしく生じた濃密すぎる親子関係では、親が抱く価値観を子供に重く負わせて養育しようとするあまり、結局、子供の個性を食い潰してしまっている例を数多く目撃し、ほかならぬ私自身が危うくその渦中にあった時期を経ていたことから、若き日の正介氏との邂逅が記憶の底に強く印象づけられていたのだと思う。それが予期しないタイミングで生々しく現前したことへの驚きがあった。
 かつての腺病質な印象の少年は、還暦を迎えた立派な姿で忽然と再び立ち現れた。嬉しい出来事である。
個人的な感慨に耽るだけで、書評としての体をなさない言葉をつらねてしまったけど、親子関係の中でもがきあがきながら生きた、あるいは生きる現場体験者には身につまされる文章であると思う。


| | Comments (8) | TrackBack (0)

« December 2012 | Main | September 2013 »