手袋の白昼夢
「何かやったなっ?」という予感があったのだが気がせいていたのでそのまま席を立って帰途についた。その予感が何であったかは車中の人になってからやっと気付いた。手袋が片方しかないのだ。つまり片っぽうを失くしてなくしてしまった。いい加減にポケットにねじ込んで立ち上がったのでどこかで落としたのだろう、あーあ。片っぽだけ残ってしまった手袋ってどうしようもなく空しい。
あくる日、昨日の道を逆向きに辿る途次、路上に目を泳がせながら歩いたのだが、やっぱ見つからんかった。安物の手袋だが、いざ片方を失ってしまうと、残されたもう方っぽのやるせなさが妙に身に染みる。処分するよりほかにどうしようもないのだろうか。
ところが、思いがけない場所でなくした方のヤツを見つけた。仕事場の玄関先に置かれている作業台の上に、所在なげに置き去りにされていたのだ。多分、この近辺で落としたのを誰かが拾って台上に放り上げておいてくれていたのだ。あれからここを何度も通っているのに今まで気付かなかった。心なしか、夜露を含んでしなだれている。でも、以来、捨てきれずに鞄の底に取り残されていた方っぽと組み合わせると左右びったりと揃って元通りの組み合わせになった。
勇躍、両手にはめて帰路に付く。なんとなくルンルン。
ところがである。下車駅前にある古書店の平台セールに遭遇。これがCD3枚800円のセール。土地柄なのか、ときどき行われるこのセールはロックやポピュラーに混ざって、妙にマニアックなクラシックのアルバムが混ざっている。リゲティの室内楽2枚。クルト・ワイルの交響曲1番と2番。これで800円。いま所持するエルガーの何枚かもこのセールで買い込んだのが元になって増えていった。グレングールドのヒンデミートだとか、「COUNTY GARDEN」と銘打って、ヴォーン・ウィリアムス、デリウス、グレインガーなんてあまり馴染みのない作曲家のガーデン・ミュージック(?)を集めた変なアルバムとか、つまり妙にディーブな物件がメッチャ安く買えるんでつい我を忘れて……、このあたりでまた手袋を失った。同じ左手だ。
翌日再び路上に目を泳がせながら歩いたのだが、今度は見つからない。また右手だけが残された。
職場からの帰途小一時間の間、あの左右の手袋の逢瀬は何だったのだろうか? これって白昼夢? だったらショボイ白昼夢だよなー。せっかく見るんだったら目眩く夢を見たかったよ。初老の白昼夢ってこんなものかなー。白昼夢なんて、そうそう遭遇しない機会だったのに……オシカッタ。
僕にとっての忘れがたい白昼夢といえば、中学生の時の記憶が深く刻まれていて、以来決して消え去ることがない。
その頃僕は田舎の中学生で、夏休みに東京に出てきて親戚の家に転がり込んで幾日かを過ごすことがあった。その夏もそんな風に上京していたのだろうが、その間、年長の従兄姉達が代わる代わる百貨店の試食巡り(いまで言えばデパチカ巡り)なぞに連れて行ってくれるのだが、誰も時間が空かない日もあったのだろう。その日は一人で後楽園遊園地に出かけていった。
昭和28年頃のことだから、今のようにド迫力な遊具などは全ったくなくて、極めて牧歌的なミラーハウス、コーヒーカップ、メリーゴーランドなどが点在していたに過ぎないが、田舎の中学生にとっては充分過ぎる異空間だった。
そこで見知らぬ美少女と邂逅して午後の半日を共に過ごしたのだね。ミラーハウスの向かい合う鏡の中に無限に重なり合って写り込む自分たちの姿をのぞき込む、映画の一シーンそのままって分け。テキの方が少々年上だったのかもしれない。どうしてこんな巡り合わせになったのか、いまだかつて不可解だ。田舎少年にからかい半分で声を掛けたのは、少女の方だったに違いない。(「でも当時、僕もそうとうカーイかったからな」などと、老獪の域に達したロージンはシレっとしていう。)夕闇が迫るまでこんな夢幻境で遊んだあの数時間は何だったのだろうか? それは間違いなく現実であったはずだが、次第に記憶が遠ざかって行くに従って、あれはやっぱり少年期の白昼夢であったのかなーという思いを反芻するようになってしまった。
以来、今日まで白昼夢からは無縁だったのだ。だからこの期に及んで手袋の方っぽが失くなったんてなさけない夢を見るってこたあないだろう。川端康成みたく眠れる美女の夢とまではいわないが、もうちっとばかり妖しいのでもよかったのに、残念!。
しかしこの冬以来、ちょっと右手が神経痛気味で、再び片割れになってしまった右の手袋をはめて寝ると具合がいいのだなー。夜寒の寝床に本を持ち込んで、それを支える片手をけなげに包み込んでくれている右手袋。大いに助かっている。これが初老の白昼夢後日譚。まいっか。
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