SEIDE HPを再生しようかなー!
SEIDE HPは、2006年のスタートでございました。
2003年に開設した@niftyのココログが動くようになっていた。一時、止めるとか言っていたから、そのまま放置していたんだけど、何か結構面目を一新してイゴいているジャン。ここからSNSにも転送できると言うことですが、今のところは欲張らずにこれだけを暇に任せて修復を試みます。 😃
九ポ堂版と岩波書店刊定本漱石全集第一巻(2016)の『吾輩は猫である』とを読み合わせて、校異表を作りました。是非ご参照頂きたいです。近代文学に於けるスタンダードテキスト作成に対する一つの態度表明です。老いの執念というヤツかな?
身辺に色々あって長く放置していたら、有るときもう閉鎖するからブログを引き上げよという連絡を貰ったんだよね。で、てっきりもう無いと思っていたアドレスがどうもまだ生きているらしい。
大阪地震の発生に促されて、googleで「方杖 塀」と打ち込んで検索を掛けたら、何と、塀脇でニッコリする美女に次いで「ブロック塀の恐怖」なる古い書き込みが挙げられていた。驚いてチェックすると、何と2005年12月に挙げた私の記事が現れちゃったですよ。驚いた。
niftyからのあの通達は何だったんですかねー。
でもうまく稼働するようだったら、ここでいささかの発言を復活しようかと思っています。
どうなりますことやら(*_*)
小学校1クラスの生徒数を35人から40人に戻す(ってのは、何時から40人だったの?ワシが小1の頃は、生徒が教室に収まりきらずに廊下まで溢れていたなー。あの頃は定員なんてあったのかなー? あはは、それで廊下学習に憧れたものだ。少なからず志願者が居たんだが、先生の話を聞いてなくても良くできるヤツしかこの席は許されなかった。終戦直後の話だけど…)という問題についてジャーナリズムが喧しい。
早い話、日本の教育理念(初等教育だけでなく)が知識の詰め込みを基軸にする限り、35人が40人になることなんか左程の問題でもなかろう。これが50人であろうと、場合によっては予備校大全盛の頃の人気教室が100人以上を集めたなんてことにも通底している。まあ、できるヤツを猫っ可愛がりしてできないのを振り落とせば良いだけの話なんだから何ってことはない。
僕なんか、短大で教員を始めた頃は専門課程1クラスの人数が60人近く居たんじゃないか? こんな中でもできるヤツは決まっていて、教員だけではなく、学生間の誰もがその存在を認めている。それは暗黙の承認というやつだ。教員によっては、あからさまにこの優秀な学生の方にばかり目線を送るのが居て、そうすると忽ちクラス中の顰蹙を買うことになる。
こういった際の教員としてのコツは、良くデキル学生を無視してデキナイヤツをかまうことだ。合間には撒き餌を放つように心がける。あんまり効率の良い作業ではないが、時折このエサに食らいついてくるのがいて、これを潮に、案配良く飛翔していくのがいる。この様を眺めるのはいわゆる教師冥利に尽きるというのだろうか(ただ、デキルのを本当に無視しちぁあアカンよ。そこは阿吽の呼吸だね)。
話がずれていく。本題に戻さなくっちゃ。
今回ここでは、近頃話題の生徒数問題にイジメ問題を絡めて話してみようというわけだ。
僕は1982年に、小1に上がったばかりの息子をつれて1年間のドイツのミュンヘン滞在に赴いた。息子は幼時に大病を患っていて、小1になってもひ弱な感じの子だったので、周囲からみればこれは暴挙の類いだった。特に当時健在だった老父母の心配ぶりは尋常ではなかった。私達夫婦だって無神経に臨んだわけではない。早い話が、辛くもこの病から息子を助け出してくれた若い小児科医師からは「将来を保証したわけではありません。大事に育ててください」と言われていた。それほどひなひなした男児だった息子が、なんと一年間ミュンヘン滞在を経て普通の男の子になって帰国できたのだから巡り合わせというものは不思議なものだ。無論、成算があってとった行動ではなかった。彼地で生命に関わる重大な局面に遭遇しても、彼の人生にとって外地での暮らしは充分な意味があったと思えるようなドラマを設定するのも親の役目であろうというような悲壮な気分に駆られての行動であった。若気の至りだったことは、今になればよく分かる。
そんなわけで「ミュンヘンと言えばシュタイナーだなー」などとミーハーな気分のまま彼地に赴いたわけだが、行ってみて現地の反応を感じ取ると、現地ではこれがかなり特殊解だなーと感じた。「私立ならペスタロッチ・シューレじゃねーの?」といわれたりした。ま、別に私立学校にこだわっているわけではないし、いわんや当時、ペスタロッチを連呼する日本の教育関係者の人となり一般にかなり偏見を抱いていたりしたものだがら、「これは公立小学校に行かせた方が良いな」と、すぐ方針を転換した。
ミュンヘン滞在の当初、頻繁に領事館に赴いて色々世話を掛けたのだが、ここが我が家から2度電車を乗り継いで行く場所にあった。小学校の入学手続きには出生証明書が必要だから、戸籍抄本を持参すればこれに必要事項の翻訳を添付してやると言われた。かなり親切なんだろう。そこのところは良く解っていたのだが、入居したアパートの大家さんに小学校の場所を聞くとそこは至近の場所だと分かった(この大家さんがネオ・ナチのメンバーだったことをあとで知ったが、ここでは言わない)。それで物は試しとばかり、直接小学校を訪ねてここに入学させたい意向を伝えつつ、当時は青焼きだった戸籍抄本(当然、漢字を主体にした縦書き文書)に息子の出生地、生年月日などを添えて、これが日本の出生証明書だと言ってヒラヒラさせたら、女性の校長が「おー、ファンタスチック!」とか言って、即刻入学許可が降りたのには驚いた。
ミュンヘンに到着したのが9月当初だったので、あっちでは新学期始まったばかりの一年坊主のクラスに混ぜていただいた。担任は、ちょっとご年配のフラウ・コーネルト(コーネルト夫人)だった。この公立小学校に於ける1年坊主クラスの生徒数が20人そこそこだった分けですね。ここではこれを言いたいわけです。少人数制ってのは、35人が40人になるとかならないとかっていう議論の外にある問題。
近代式の教育制度は手本を西欧にしているといわれているが、その肝心な部分は少人数クラス制と週5日制、それも午前中しかやっていない(少なくとも低学年では)ってとこですかねー。これって現在の我国では全部無視されていますね~。
フラウ・コーネルトが教員としてどのような有能者であったかどうかは、比較する対象を持たないので全く分からないが、私達としては結果的に極めて感謝している。少なくとも彼女の懐の中で育んでいただいたほぼ一年間の間に、息子はすっかり人並みの元気一杯な男子に育っていったのだから。
この20人のクラスでは、担任の目が一人一人の生徒にすっかり行き届いていたということだろう。ま、いやでも目が届くという人数ではないかしら。編入当初、すでに日本人の男子Kがいて、これをフラウ・コーネルトは配慮していただいたのか、同じ国同士を並べて席を配置していただいた。これが結果としてかなり陰湿なイジメを招いたことに彼女は気付いて、席を離して下さった。彼女はこのイジメについて、先方の親には話していないと思っているが、どうだろうか? Kだって急遽新来の日本人男児が隣の席に座って、予想外の反響をクラス内に及ぼしたとしたらなかなか心安らかでは居られない。ドイツ語もろくすっぽできない(というか全~然話せない)。そのくせ、半年ほど早く日本で一年坊主になっていた我が息子は、算数や絵の時間になるととたんに颯爽としてしまう。目障りな存在であったに違いない。かなり陰湿にやられたらしい。
ところで、この20人クラスには息子とKの日本人が2人、それにワルだとの噂のミュヒャ(ハンガリー人、多分日本流に言えばミュシャ? この男の子と息子は程なく仲良くなって、母子で我が家に遊びに来たりしていた)がいた。つまりクラス内の3人はすでに外国人なのだ。この他にも外国人が居たのかどうか知らないが、不法滞在かそれにスレスレという感じでも学校単位では詮索しなかったのではなかろうか? 学校とクラス担任は、20人の子供同士の関係に心をくだくという姿勢だけで精一杯だったのだろう。ま、勉強については本人の興味の持ち様と資質にまかせるというか…。
一年坊主の登校時は親が付き添っていくのだが、帰りは自力で帰ってこなくてはならない。 この学校に通うようになって、どの位い経てからだったろうか? いつの間にか、ザールカンというトルコ人の子が自分のランドセルを背に、息子の分を前に掛けて帰ってくるようになった。聞けば、彼は学校切ってのワルだという話だったが、息子は訳も分からずザールカンと親しくなったのだ。これで息子はイジメとは無縁になったのだと思う。家内はザールカンの家に日頃の感謝の意を伝えたいと言って出掛けていった。ドイツ語でどういうやりとりがあったのか知らないが、彼の家には頭髪をスカーフで巻いた母親がいて、親しく迎えてくれたと言っていた。何か日本からの土産品でも持っていったのかもしれない。
こう書いていくと、息子はドイツ人とは親しくならなかったのかと思われてしまいかねないが、クラスで一番大柄な男子ベャンハルト(ベルンハルト?)とも親しくなった。この母子も我家に来て楽しく過ごしていったりしたが、この子の母親は息子がいじめっ子として要注意扱いを受けていると不満を漏らしていた。
あるとき、私は学校付近の広い幹線道路に沿った歩道を歩いていた。すると向こうからきりっとした顔立ちの少し上級生らしい女の子が近づいてきた。「あんたはSのお父さんか?」と聞く。そうだと答えると、「私が彼に気を配っているんだから心配しなくて良い」と言ってスタスタと行ってしまった。
イジメの問題は単純な話ではない。学校内だけでイジメがなければそれで良いのかという問題でもない。それにどう対処していくか、という子供社会の問題でもある。そこに制度としての学校教育がどうかかわっていくかの問題であって、学校内だけでそれを表面的に根絶できら、それで社会は安泰かというととんでもない話だ。
さしあたって、本来的な意味で少人数制をどう導入するかってことですね。
寺子屋方式を一見欧風に見せかけているだけの近代日本の教育制度が構造的破綻を迎えつつある現状をどう受け取れば良いのか?
これは小学教育だけの話しではなく、大学も同じ流れで難題に突き当たっているのではないか?
オリンピック2020の開催地に東京が決定したってのには、改めて驚いた。まさかとは思っていたけど、スポーツ団体と目先の欲に駆られた政治権力の野合によってここまで思慮の浅い判断が下されるとは、いまさらながら愚衆支配に委ねられている現代文明の行く末にやり場のない絶望を感じる。
そんなこと言って見ても今さら手遅れなんだけど…、当面の問題は汚染処理にどんな解決策を提示し得るかだろう。向こう1年以内に大方の了解を得る方針が打ち出せるかどうか(国内世論を言いくるめる手法では通用しない)。危惧するのは、この時点で開催地返上ないし開催中止にでもなれば、「1940年の悪夢」再来ということになる。
そこで、どんな手があるかを考えてみた。
① まず、使用済み核燃料貯蔵プールに大量の水を注入した緊急時対応はやむを得なかったとして、これを今後の何年、何十年、何百年と継続するのか? その分だけ、汚染水は増加の一途。
やがて汚染した貯水タンクは東電の敷地を越えて果てしなく拡張。その占める面積がどんな速度で増えていくか? これはスーガクの問題ではなく、サンスーの問題でしょう。
② 貯水タンクの漏水問題。これは尖端科学技術の問題ではなく、…とはいえ、これは喫緊に直面する問題ではあり、しかもこの方式は明日にも破綻する。もう、破綻している。では別の方策ってありますか? 無いだろー、そこが問題なのだ。
③ で、使用済み燃料プールに大量の水を注入しつづけるのではなく、冷蔵庫と同じ方式でプール内に冷却管を挿入して冷やすってできないの? 現在、それほど水温度は高くないように思いますが? これってマンガ的(鉄腕アトム的?)発想なのかなー? 今のところ、ワシの頭はこの程度しか思いつかない。だったら、未来永劫に近く水を注入し続けるのだろーね。とすると、①に逆戻りします。
④ 水の大量の注入方式から逃れられないとして、そこから生じた汚染水をそのまま保管する(´Д`)。これはサンスー的にダメ。目下、「汚染水濃縮装置」が稼働を中断しているそうだけど、そのまま放置ですか? 単純な発想だけど、ウイスキー醸造装置のお化けみたいな施設を作って、水蒸気だけ大気中に放出する算段は取れませんか(これもマンガ的だと言われそうだが)? この方式では放射線物質も水蒸気と一緒に飛んでっちゃうの? 現状でもそういうこと? じゃあ無限に汚水タンクを増やして行けば、それだけ水の蒸発量も増加するわけだから、これもサンスー問題(タンク製作業者は永遠に受注を確保。ケーザイとしては得策、ケー団連にんまり)。どっちに転んでも、水のまま保管するってのはダメじゃん。汚染物質除去フィルターの話はどうなったんだろう。この問題を子々孫々の世代に相続やむなしとするにしても、大量の水のまま残すわけには行かない。兎に角、濃縮して保管する以外にないんだけど…(*゜д゜*)
⑤ で、「汚染水管理を完全にコントロールできている」と言う方も言う方だけど、これを真に受ける神経が大方を制する集団って何? ま、この問題の最終責任は、政治家やケーザイ界、エセ科学者の頭上を越えて、日本民族がその集団ごと世界に対して負わなくてはならないことになる。
まあ、それは兎も角として、フクシマ原発周辺を凍土による防護壁でで囲うという発想が提示されている。発想としてのダイナミズムには興味があるけど、技術的にそれが実現したとして、氷って結構それ自体に新陳代謝があるんでねーの? いわんや「凍土」には相当不純物質が含まれるハズ。ムギワラとか、アスベストとか…。その外いろいろな問題をクリアし、完璧な防護壁が構築し得たとして、それは地下何メートルまで到達するんだろーか? まさか数10メートルでお茶を濁すんではないんだろーな。で、その建設工事にはどれだけの歳月を要するのか。それが完成のあかつきには、永遠に電力を供給して冷却し続けるのか? そのためには原発の再稼働が必須だという論法(ケーザイ界にんまり)だろーが、この問題を子々孫々の世代に相続。
⑥しかし、問題はこれだけでは全く解決しない。防護壁が底なしでは何ーんにも解決しないのだ。どんなに頑強な擁壁を構築しても底抜けではダメ。地下水問題が残ってしまう。「完璧」な防護壁には、同じ性能で底を付けてやらなくてはならない。
日本の国土は、どこでも大量の地下水が流れている。15年ほど以前、JR武蔵野線新小平の半地下駅が大雨の後、地下水圧に押されて浮き上がってしまったことがある。そのために半年近く武蔵野線は不通を余儀なくされたではないか。いわんや沿岸地域での地下水流問題は「染みこむ」「漏れる」とかいうレベルの話ではないのだ。地下には川が流れている! この問題を土木関係者が指摘しているという話を聞かないけどどうなっているのだ、ダンマリか? 学会誌などにはそれなりに掲載されているのかもしれないが、翼賛マスコミがそれを無視?
⑦ 底なし擁壁ではそれ自体意味が無い。では底を付けたら良いじゃないか、と言われる向きもあろうが、メルトダウンした原子炉の直下に工事人が入るの? ロボットに任せようって? それでめでたく底が完工したとしよう。大雨で浮き上がったらどうする? 難しい問題は無限にある。
⑧ どうやって工事を実施するかは兎も角として、中華鍋のように球体の一部を切り取って、そこに原発施設をそっくり掬い取るような「完璧」な防護構造体を作ることは可能だろう。「世界中の衆知を集合して」という話もあるが、この程度のことなら準日本の科学技術で実現可能だ(数百本のスカイツリーを同時に作る程度の技術で可能なのかどうかは知らぬが)。ただその「完璧」な遮断性能がどれだけの期間、性能保持し得るのかは不明。この問題は次世代に負の遺産として申し送るしかない。
この点に、我がニッポン民族の財力、知力を結集しなくてはならないが、だからといって福島県を中核とする汚染地域住人への支援を怠ることは許されない。この問題だって、今後はより厳しく国際的なチェック態勢の目に曝されること疑いなし。
⑨ 過去の「歴史問題」の範疇では(現在でも?)、戦争で多くの犠牲者が生じたら「神さま仏さま、ごめんなさい」と懺悔すれば、それなりに許してもらえる余地があったような気がするが、この原発問題は「神仏の管轄外」にある。遅からず人類は神仏共々周辺の生物を巻き添えにして、滅亡のスパイラルに落ち込む確率が高くなった。
地球上の生物は、ある種の微生物のみがかろうじて生命維持していくのかも知れないが、再び人類に似た「知的」生物が発生するに至るのは、遙か◎億年先の話になるのだろーか。
『江分利満家の崩壊』山口正介著(新潮社 2012)。著者の山口庄介氏は、かつての1963年(うーむ、半世紀前のことだ!)、「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞して以来、流行作家として一世を風靡した山口瞳の一人息子。
へそ曲がりで、ベストセラーを殊更に避ける癖のある私はこの本を読んでいないが、その後、大活躍した山口瞳が書いた断片的なエッセイ等は雑誌等でしきり読んでいたし、また当時海のものとも山のものとも分からないというか、低迷のどん底に沈んでいた私を何故か気に掛けてくれていた編集者のF氏が、壽屋のPR誌にかかわっていたりしたものだから、何となく自分がそのグループの周辺に居るような気がしていたので(他愛もないことをちょっと手伝わせていただいたりもした)、全くの他人とも思えないような存在でもあった。しかし、その文学的な真骨頂は今でも全く知らない。
にもかかわらず、今回の『……の崩壊』には手を出してしまった、というか読んでしまった。そしてとても感銘を受けた。
実は、発行早々にこの本が国立の増田書店に平積みされたのを目にしてすぐさま手に取って見たのだが、購入するにはもう一つためらいがあった。それは私が『江分利満氏の優雅な生活』を読んでいなかったからだが、そのうちに結局買うんだろーなー、と思っていると別の書店でも本書の平積みを見かけるようになった。よく売れているらしい。そんならすぐ買えば良いじゃんとの声有り。そこはそれ、定年オヤジにとって可及的速やかに必要でない出費はじっくりと考えた末に……、結局は購入するにしても、店頭で繰り返し手に取りつつウジウジ楽しんで、購入の決断をするまでの時間経過を楽しむのである。この曖昧な時を楽しんでいるうちに、家内が買ってきてしまった。それで読んだ。そして感銘をうけたのだ。
ためらいつつもやたら気にしていたのは、実は以前に若き日の著者庄介氏に遭遇したことがある……というか、ちらっと見かけたことがあるのだが、それはもう40数年も以前のことだ。この当時、著者は十代の青年と言うよりもまだ少年と言った方が相応しい年頃だったろう。その彼との一瞬の遭遇が深く印象づけられ忘れていなかったのだ。片時も忘れられないというような深ーい記憶ではなかったのだが、今回店頭で見つけたこの本の表紙に一人の壮年の大男がいまや立派なひげを蓄え、きちんとした面構えで両親と並んで立つ姿を見て、かつて得た鋭い印象がにわかによみがえった。
その時の少年はとても生き辛らそうに見えて、おい、大丈夫かと声を掛けたいほどの心許ない風情を漂わせていたが、このオッサンはあの時の少年御本人なのではなかろうか? ぱらぱらとページを捲ってみると山口家の一人っ子だと記しているから間違いはない。かつての一瞬に得た印象が私の記憶に鋭く刻み込まれたのは、それは他人事でなく、当時やっと二十代の半ばに達し、浮世のメカニズムに沿った行き方をギクシャクと始めたばかりの私にとって、つい十年ほど前には自分自身が陥っていた若年時の息苦しさをと同種の心許ない姿が、この若者に映し出されているように見えてドキッとしたのかもしれない。
その時私は、ある新鋭女性建築家によって新築なった山口瞳邸を某建築誌の下っ端編集者として取材に訪れ、瞳氏の談話を取りつつ写真撮影に付き添って、家中をくまなく覗き回った。その際に若き正介氏を瞥見したのだ。
あの少年がこんなに立派になっちゃって、良かった、良かった。後にも先にも彼を見かけたのは一瞬の出来事で、後々その時の邂逅を反芻したわけではないのだが、あのとき受けた鮮烈な印象が、脳裏のどこかに張り付いたまま剥がれ落ちないままだったのだろう。何だか大げさな言い回しになってしまったが、それだけ、この本の表紙で山口瞳夫妻と共に立つオジサンが醸し出すオーラに強い感銘を受けた。
結局この本の主題は、極めて個性的な存在であった著者の母親で山口瞳夫人であった治子氏に著者および山口瞳ともども、徹底的に振り回されたのが、『……の優雅な生活』のもう一つの側面であった、という種明かしであるらしい。「らしい」というのも無責任ないいかただが、つまり私は山口瞳の主著と言われる『血族』も読んでなくて、文学的な邂逅を全く果たしていないとは、このことを言っているのだが、にもかかわらず『……の崩壊』を読了しての感慨はとても強かった。
戦後核家族の出現で巷におびただしく生じた濃密すぎる親子関係では、親が抱く価値観を子供に重く負わせて養育しようとするあまり、結局、子供の個性を食い潰してしまっている例を数多く目撃し、ほかならぬ私自身が危うくその渦中にあった時期を経ていたことから、若き日の正介氏との邂逅が記憶の底に強く印象づけられていたのだと思う。それが予期しないタイミングで生々しく現前したことへの驚きがあった。
かつての腺病質な印象の少年は、還暦を迎えた立派な姿で忽然と再び立ち現れた。嬉しい出来事である。
個人的な感慨に耽るだけで、書評としての体をなさない言葉をつらねてしまったけど、親子関係の中でもがきあがきながら生きた、あるいは生きる現場体験者には身につまされる文章であると思う。
「九ポ堂/DTP/電子ブック」に上掲した.pdf版はモチロンただ読みして下さい。ちょっとだけ「立ち読み可」なんてケチなことは申しません。そんな「反ネット的」な処置は一切なしです。この.pdfは全部読めます。もしかしたら、そのうちお洒落な「紙の本」として九ポ堂から上梓(!)するかもしれないですが、その節はよろしく。http://goo.gl/hCQ2A
.pdfのdownloadの仕方は色々でしょうが、ここでは特にスマホやタブレット端末を意識して作りました。iPadではいまのところ「i文庫HD」アプリがお薦めです。「九ポ堂/DTP/電子ブック」のページhttp://goo.gl/hCQ2Aで、いずれかの本の扉表示をクリックしていただくとすぐdownloadが始まりますが、右上に「iBooksで開く」「次の方法で開く」の表示がでます。「次の方法…」で「i文庫HD」を指定していただくと良いわけです。
iBooksは、あらかじめiPadに乗っているので、もちろんこれで繙読可能です。しかしこのアプリはapple提供の書籍には「ページ捲り」の機能が有効ですが、自前で(タダで)UPした.pdfを繙読する際には対応していません(2012/12現在)。で、ちょっと有料ですが「i文庫HD」ですと「ページ捲り」が楽しめます(クダラネーという向きにはお薦めしません)。
これだと「右開き」「左開き」のどちらかが指定できますので、縦書きの本なら「右開き」を指定してください。自作、他作の論文、小説、その他さまざまな日本語文書(マイナーで結構)を.pdfに仕立てるのは簡単ですので、こうすると結構リッチな気分になりますゼー。
●ここで『吾輩は猫である』を2段組にしたココロはロージン向けの涙ぐましい配慮であります。縦書きの場合、拡大すると版面がすぐディスプレイからはみ出してしまう。すると一行毎にスクロールして読まなくてはならないという実に馬鹿げた事態に遭遇します。それを避けるための「行届いた配慮」の表れがあるのだと、ご老人の方々にご推奨いただけるとありがたいです(タブレットの操作そのものがアカンか。じゃあ、アナタの老後にどうぞ)。
で、もしかして『猫』なんて中学時代の読書感想文を書く際に読んだから……とおっしゃる向きも多いのでは? これを中学生で読んだのはマチガいでしたよー。せめて、30最以上の家庭人ないしはその経験者がお読みいただくことをお薦めします。あなたが50歳以上でしたら心に沁みます。もっとも漱石はこの『猫』を38-9才にかけて書き、49才で死んじゃったんですよねー。10年間の活動期を一気に駆け抜けた人です。天才って言うのは当たっているけど、文豪にして奉っちゃうのはどうでしょうか。
家柄としてはともかく、実際の育ち方は江戸庶民階級のそれだった。幼少時に罹災した疱瘡で顔が月面状態だったそうで、これは当時にあってもすでにオボッチャマの罹る病ではなかったそうです(千円札の肖像は修正もの)。
それだけに江戸下町の人情と落語的気っ風にどっぷりと浸った生涯だったと思うのですがどうなんでしょうか? その後の権威化が甚だしい文豪像からは相当乖離した生き方が、『猫』における奥さんや姪っ子とのやりとりの絶妙さから伺うことができます。落語を楽しむ気分で味わって下さい。底本に関する解題は、http://urx.nu/2LGJ へ
●『中華料理の作り方百六十種』の著者山田政平は、私の亡き母の叔父に当たりますが、17才にして(1910年!)中国に渡り、それまでは満漢全席等の宮廷料理として日本に紹介されていた中華料理に対して、庶民料理としてのチューカ(ラーメン、餃子、肉マン、シューマイ等々)を早い時期に紹介した一人です。無論、筋金入りの民主主義者でした。私はとても尊敬しています。彼の心意気に反することは絶対にできません。本書に関する解題は、ある程度.pdf内で試みていますが、奥歯に物が詰まった感は拭えません。悪しからず。ところでここに上掲した.pdfにはページ配分等にまだ不備があります。なるべく早めに修正しますので、よろしくご容赦ください。
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